ライフ イン スウェーデン

スウェーデンでの日々の雑感、旅行記、サッカー観戦記、などなど。

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アムステルダム散策

5月4日 火曜日

この日は、オランダでは戦没者を祈念する日で、20時からその式典が王宮前広場で行われた。
それをテレビで見ていたのだが、黙祷の後、人の集団が崩れて、将棋倒しみたいになった。一瞬何が起こったのかわからなかったのだが、王女様らが慌てて建物内に移動しているのを見て、何らかのハプニングがあったことがわかった。結局、後で調べたら、叫び声をあげた男性がいて、それで周りがテロか何かと勘違いしてパニックになったとのこと。
しかし、その後再び王女様がでてきて、式典は最後まで執り行われました。

5月5日 水曜日

朝にいったのは、国立博物館。1階はオランダが世界の海洋王国として栄えていた頃の展示。イングランドとの戦いの模様など。そして、東インド会社の活躍も。日本ではオランダが西洋では唯一の鎖国の間も交流があった国であり、オランダはなじみが深いような気がする国ではあるが、ABCD包囲網のDはオランダであることも忘れることはできない。歴史的には、インドネシアでの過酷な植民地経営もオランダからしたら栄光の歴史のメインを飾るわけである。

で、2階は、レンブラントの夜警、フェルメールの台所の女中(これはまさに傑作)、そしてヤンステーンなどのオランダの絵画を楽しむことが出来た。あまり広くはないけど充実していた。

で、ランチはインドネシア料理とビール。ランチでヌードルの上に串の肉など何種類か載ったもの。値段は安くはなかったがまあ、一回くらいはこういうのも食べておかないとね。

歩いていたら、花の屋外市場へ。屋店が並び、人も沢山。

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アムステルダム歴史博物館へ。その前にカフェでビール。おかげで時間が無くなり、どたばたとアムステルダムの歴史を追った。ここにもレンブラントの絵もあった。

そして、王宮前へ。今日は解放記念日である。昨日から多くの献花がダム広場の戦没者慰霊塔の前に置かれていた。

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そして、町を東へ。そこはチャイナタウンがある。まず、カフェでビール。そしてチャイナタウンで何か中華食おうかと思ったけど安くないのでやめた。

で、有名な赤いランプの飾り窓のエリアを通り抜けた。おなじプロテスタントの国でも、スウェーデンとオランダではいろいろなことが違う。大麻のそうだし、売春もそうだし。

写真は計量所

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そして最後にまた、フレンチポテトを並んで買って立ち食い。日本のたこ焼きの方がはるかにいいと思うのだが、この国ではやはりこれしかないだろう。ま、ベルギーでもそうだったのだが。

こんな感じでアムステルダム観光終了。

5月6日 木曜日

朝ホテルをチェックアウト。空港でチェックイン。
空港をぶらぶらしてたら、KLMの店で、なんと、本物の飛行機のコクピット部分に入って器械をいじることができた。気分はグッドラックのキムタク。現実はとなりで中国人の子供もがちゃがちゃいじってた。制服をきて写真を5ユーロでとることもできる。パイロット気分で朝から楽しかった。あれだけの器械を使って飛行機を飛ばす彼らはやはりすごい!

で、飛行機に乗って帰宅。宿題を急いでやって、ストックホルムへ行って大学のスウェーデン語の講義へ。

8年ぶりのアムステルダム、ハーグもライデンもチューリップ畑も非常に楽しめた。景色に、絵画に、歴史に。

ハイネケンは飽きた。後半は白ビールだった。

旅行記終了

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ライデン

5月4日午後 ライデン

まず、シーボルトハウスへ。

シーボルトの日本に行くまでの経緯、日本で、出島から江戸への旅、日本人女性との間に生まれた娘のこと。捕らわれの身になったこと、などのストーリーをまずビデオで。その後、彼が持ち帰った日本の品々が展示されていた。工芸品から民芸品、武具、そして日本の犬やサルまで。最上徳内の書いた樺太の地図もあった。そして、彼の子孫のインタビューなどもビデオで。その方がいっていた、今の若い日本人は元気がない。シーボルトみたいに冒険を恐れないでほしい、とのメッセージ。承りました。
ちなみにシーボルトはドイツ人である。

で、歩いてすぐのライデン大学界隈へ。壁に書いてあるこんな日本語が目に入った。

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ライデン大学は1575年からと、オランダで一番古い大学だそうだ。
で、川沿いの雰囲気が良い。自分が今住んでる町にちょっと似た感じ。

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感じのいいカフェでビールで一息ついて、もどりに、レンブラントの生地に立った。そこの風景。

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と、けっこういい雰囲気の町であった。

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キューケンホフ公園 チューリップ畑

5月4日 火曜日

晴れた。おめあてのキューケンホフ公園へ。そう、チューリップの公園

電車でスキポール空港へ そこからバスにのって公園へ。

いまがシーズン。ちなみに開園は3月半ばから2ヶ月。

やまほどとった写真の一部はこちら。

まずは、白

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そして、黄色

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そして鮮やかな赤

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やや濃い赤

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きれいに整備されている花壇が、まさに広い園内中で。

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園内には、風車もあり、他、花屋ももちろんあり、レストランもあり。日本人の方も沢山こられてた。

しかし、私は、公園の横の畑の景色がやはり気に入った。



まさに、赤いチューリップの絨毯

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畑では球根を育てるため、最多と思うとすぐ花を摘むそうな。

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というわけで、美術館はもちろん、この「お花畑」がみたかったので、大満足だった。

午後、ライデンに移動

続く

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ハーグ マウリッツハイス美術館 デルフト フェルメールセンター

5月3日月曜日 雨

この日、ハーグへ電車でいった。

おめあての、マウリッツハイス美術館へ直行。
この美術館所蔵のお宝といえば、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」「デルフトの眺望」レンブラントの「デュルフ博士の解剖学講義」が地球の歩き方に載ってる。

これが 「真珠の耳飾りの少女」
ひとついえることは、実際の絵の素晴らしさ、切なくなるような感覚。やはり、美術館に足を運ぶことは意義があるということがよくわかった。

250px-Johannes_Vermeer_(1632-1675)_-_The_Girl_With_The_Pearl_Earring_(1665).jpg


他にも、ルーベンスをはじめ多くの魅力的な作品が展示してあった。
いちおしは、ヤンステーンという画家の作品。非常にユーモアにとんだ作品で面白い。
レンブラントの後期の自画像は、迫力があった。

満足して外に出たら、雨と風と寒さ。ハンバーガーでとりあえず腹を満たし、その後の行動、時間は限られていて、国際司法裁判所に心引かれたがあきらめ、デルフトという町へ。トラムで。フェルメールゆかりの町に行きたいと強く思った。

そして、一直線に向かった場所は、フェルメールセンター。彼の作品はないが、彼の人生と作品のパネルと、絵の中の象徴的な意味を持つ事柄に関する説明、彼の光への感覚のすばらしさなどの解説を楽しんだ。

カフェで一服して、広場へ。

市庁舎


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新教会

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寒いし雨というか風がひどくて傘もあおられる悪条件で町歩きは断念。トラムでハーグに戻ってそこから電車デザアンダンムのホテルに帰る。

続く

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ザーンセスカンス ゴッホ アンネフランク

5月2日 日曜日

朝、天気はよろしくないが、予定通り、ザーンセスカンスという風車の村へ

強風さらに寒い。雨も降ってきた。

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この緑の壁の建物がこの地方の伝統的な民家だそうだ。

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この風車はなかなかおもしろかった。

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水辺の風車群 この後の旅行で美術館をめぐったが、オランダの風景画には欠かせないアイテムだ。今も昔もオランダの象徴。ちなみに3ユーロで中の見学可。



チーズを作る工程の説明をする部屋があり、その横でチーズ売ってた。試食でさまざまな種類を食べ、おなかいっぱい。結局かわず。

午後、アムステルダムにでて、まず、ゴッホ美術館を閉館まで。
彼は27歳で絵を0から描き始め、亡くなるまでの10年間しか絵を描いていない。その間に、歴史にのこる傑作をヨに残したわけだ。ひまわり、そして甥の誕生にあわせて描いた作品が心に残った。

そして、アンネフランクの家へ
アムステルダムに来るのは8年ぶり2回目で、前回もここにきた。
ナチスから逃れるため隠れ家に住んでいた彼女の生活、これからの希望や夢が生き生きと蘇る。そして、彼女の夢は、密告によって捕らわれて、16歳で亡くなることで突然終了する。ユダヤ人というだけで彼女の人生は、夢のまま終わった。やはり、大きな衝撃を今回も受けることになった。
アンネの父は生き残り、彼女の意思を残すために、1960年5月3日にこの家を公開しはじめた。明日で丁度50年にあたる。世界中から多くの若者が訪れ、帰国後彼に手紙を書いた。そのうちのひとり、ビルゲイツが書いた手紙の1枚目が展示されていた。
全ての展示の後、現在進行形の各国の問題のビデオが流れており、それに対して自分の意見をスイッチで示す、というコーナーがあった。人種などによる差別を超えた社会を皆望んでいるのだが、現実の社会でそれらの問題は今でも残っていて、解決の道はやはり厳しい、ということをその数分のハンガリーやイギリスの映像でわかり、現実に引き戻された。

夜遅くなり、KFCで食べてホテルに戻ってビールを飲んで寝た。

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