ライフ イン スウェーデン

スウェーデンでの日々の雑感、旅行記、サッカー観戦記、などなど。

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トリエステ町歩き

トリエステの町に戻って、まず小高い丘に登った。そこには城と教会があり
また、町を一望できる。

下っていくと写真のような昔のローマ劇場があった。



さらに海にむかって歩くと大きな広場があり、そこから繁華街が駅の方向へ続いていた。

駅前まで歩いてピザとビールの夕食。

宿に戻って次の日の重要な予約をネットでして寝た。

トリエステはミラマーレ城やハプスブルク家に興味がある人にはお勧めです。

次の日はまた移動。

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ミラマーレ城

milamare.jpg
ミラマーレ城

トリエステ駅前からバスに乗る。バスは北西のビーチサイド沿いに走る。1キロ以上にわたって水着のみなさんがみえた。泳げるエリアが広そうだ。
バスの終点でおりて歩くとそこにトリエステ城
この城はWIKIによると
「オーストリア大公で、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の実弟マクシミリアンの元で働いていたカール・ユンケルが、1856年から1860年の間に建てた」お城とのこと。

そして、マクシミリアン1世(1832年7月6日 - 1867年6月19日)は、ハプスブルク=ロートリンゲン家出身のメキシコ皇帝(在位:1864年 - 1867年)。

WIKIによると、1864年にナポレオン3世がオーストリア皇帝の弟であるマクシミリアンを傀儡としてメキシコの帝位に就けた。そして最後は若くして銃殺される。
その彼が3年程度住んでいたお城だが、コンパクトでさらに各部屋も見所があり、入場料6ユーロ以上の価値はあった。内部の写真を撮れないのは残念だったが。

なぜ若きハプスブルク家の皇帝の弟はメキシコに渡ったのか?どんな思いだったのか、という疑問がずっと頭をもたげ、後で検索してみた。帝位につくことに周囲も反対するものもあり、また、最後危険が迫ったときに亡命を勧められたが自らメキシコに残ったとのこと。
美しい海辺の城に住んで人生を過ごすよりも、危険は伴うが新しい場所で皇帝として生きる、ということに魅力を感じてそれを選んだのだろう。それは男としては理解できる。危険が迫った段階でも亡命しなかったことに関してまでは彼の気持ちを推測することは難しいが。

彼の賭けは結果として失敗に終わり、悲劇のメキシコ皇帝として名前を残した。

お城に、ハプスブルク家が支配した領域を示す世界地図があった。ヨーロッパは大雑把に言ってもスペイン、ポルトガル、オランダ、オーストリアからハンガリー、イタリア北部やクロアチアなど、そしてメキシコ、ブラジルのあたりも含まれている。ちなみにウィーンに行くとハプスブルク家の残した遺産で観光が成り立っているようなものである。
サラエボ事件から第一次世界大戦へ、そして敗北でハプスブルク家の中欧支配は終了した。

ヨーロッパでは今なお王室の残る国はいくつか残っている。私はそういった国が好きである。これは好みの問題であるが。スウェーデンもそのひとつである。

トリエステ城にも当時の各国の王様の肖像画が一同に飾られている部屋があり、そこにスウェーデン=ノルウェー王の絵もあった。そういうのを見るのは楽しいものである。

お城を後にして、バスでまた市内に戻った

続く

余談、これを書いている8月18日、涼しいスウェーデンに戻ってきました。
なのでここから写真つきです。

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トリエステへ

8月14日火曜日

朝、ブレッド湖一周ランニング!と思っていたけど、左ひざの調子が思わしくなく断念。
年をとると関節とくに膝が若いころのようにはいかない。
清原選手も松井選手も貴も結局は膝の故障が響いた。と一般人の私がえらそうなことをかいてもしゃあないが。

ホテルの朝食、最高だった。朝からシャンパンやベリーのリキュール、生ハムやいままでくったこともないようなうまいサラミ、ウインナー。注文してから焼いてくれる目玉焼きなどなど。

ホテルをチェックアウトして、電車で移動。
ラインはボーヒン鉄道という川の横の風光明媚な路線。Nova Goricaが終点。
この町はイタリアとの国境で、イタリア側の名前はGorizia.
イタリアの駅へ向かうにはバスがNova Gorica駅前からでている。
Gorizia駅についたものの、電車は2時間待ち。町まで歩くのも面倒なので駅舎内で東野圭吾タイム。

駅を歩く人の構成もスロヴェニアとは大きく異なっていることはすぐわかる。

2時間待って電車でトリエステへ。

トリエステ

私もこの旅の予定を組むまで知らなかった。

この町は歴史的にも重要な町である。チャーチルの演説で、「鉄のカーテン」について言及した部分は以下。
WIKIから引用

「バルトのシュテッティンからアドリアのトリエステまで、ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた。中部ヨーロッパ及び東ヨーロッパの歴史ある首都は、全てその向こうにある。
From Stettin in the Baltic to Trieste in the Adriatic, an iron curtain has descended across the Continent. Behind that line lie all the capitals of the ancient states of Central and Eastern Europe.」

今の若い人達には鉄のカーテンといってもぴんとこないかもしれない。
私の世代はもちろん鉄のカーテン冷戦ばりばり時代に少年期、そしてベルリンの壁崩壊の激動期を青年期で迎えているので、この言葉の状況はリアルで記憶にある。

そのトリエステ。現在はイタリア領だが色々紆余曲折があった、というのは興味がある人は検索してみてください。

駅ちかくの安宿にチェックイン。昨日との落差に笑ってしまうが、まあ、その抑揚が好きなもんで。

荷物をおいて町へ。

続く。

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ブレッド湖

8月13日月曜日

朝、バスで北西のブレッドへ移動。
美しい湖のほとりの保養地。

この町にバスが停車するところは2か所あると知ったのは、問題発生の後。
ブレッドというバス停でバスから降りたが、約束していたホテルからのお迎えがいない。
地図をみてもどうもおかしい。どうやら降りたところを間違えたと気が付いて、次のバス停(バスステーション)まで荷物持って移動。もちろんすでにホテルの車もなく、電話もクロアチアのテレカは使えず、キヨスクでテレカを買おうとしてもうってないとこれはやばい、というところでお迎えの車が念のためとまた来てくれた。
たすかった。ホテルは湖の反対側の丘の上だった。

チェックインの後、湖を時計回りにまわる。坂を上ってブレッド城に入り、そこのレストランのオープンテラスでランチ。遠くに湖に浮かぶ島と教会が見える。その景色とおいしいランチを楽しむ。

お城の中はちょっとした博物館。化石や風俗などを展示してあった。
窓からの景色は、アルプスの表側でこれも素晴らしい眺めだった。

城を出てまた水辺へ。
この日は気温25度くらいで、水温は23度くらいらしく、多くの人達が泳いで楽しんでいた。
私も参加したかったが、時間的に無理だった。

お城を出てぐるりと一周したらすでに夕方。島にいく手漕ぎのボートは今回は乗らなかった。

湖を見下ろす位置にあるホテルからの景色も素晴らしい。夕食はレストランでフィッシュとダック、フォアグラというあまり自分で頼むことのないコースを楽しんだ。

それにしてもホテルの素晴らしいホスピタリティーには頭が下がった。機転を利かせて2回迎えにきてくれたがこれがないと散々な思いをするところだった。部屋もグレードアップしてくれて広い角部屋だった。金額的にも連泊は無理だが、やはりこういったところでたまには贅沢するのもいいものである。是非また訪れたいホテルであった。

ちなみに夜、BBC製作の日本のドキュメント番組、関ヶ原で侍がみんな英語で会話していたのは違和感ばりばりだった。

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リュブリャーナへ

8月12日日曜日

ザグレブから電車でリュブリャーナへ。電車が出たらすぐクロアチアから出国のパスポートチェックがあり、そしてスロヴェニアにはいってまたパスポートチェックがあった。

この町は2回目。前回、2年前のブログはこちら

あまり時間もなかったので今回は、国立現代史博物館だけいった。

前回の展示と大きく異なっていたことは、前回は10日間の独立戦争のパネルや展示などが充実していたのだが、それがなかった。そして、独立以後のEU加盟やシェンゲン条約加盟などの情報がその場所を占めていた。

そうそう、博物館前にあった戦車もなかった。

国として、軍事作戦が成功した上での独立、という部分へのフォーカスが、独立以降の躍進へ移ったということととらえた。

前にも書いたが、ヨーロッパの多くの地域は支配国家民族が何度か変わる場所もある。
一方、領土、ということへの意識が日本人があまりに低すぎて泣けてくる。
政治家、もちろん政権与党の情けなさは今始まったことではないが、彼らの国民向けのパフォーマンスには、何が何でも領土を守る、もしくは取り返す、という具体的なビジョンも方法も全く見えない。

まず政治家が口にする「平和的解決」なんでしょうこれ?この今の状態で話し合えば不法に占拠しているヒステリックな連中が帰国するとでも。もちろん「平和的解決」という言葉を使うのは全然かまわないが、政治や外交というのはその言葉で相手を欺きながら、水面下できちんとした問題解決の動きをとることでしょう。これができない例えば「友愛」政治家などは日本にとって害以外の何者でもなかった。。

この場合、平和的解決とは、政治的経済的兵糧攻め、他の国や国際機関へのロビー活動で日本の立場を明らかにして、そしてあらゆる軍事オプションを考慮して高い作戦成功率をえたうえで、背後から相手のこめかみに拳銃をおしあてたうえで、「平和的」に不法に占拠している連中にご帰国願う。そこまでのプランや「本気」がなければ絶対返ってこない。
もちろんそういったことは実際政治を動かしている連中とこの国の自衛隊が作戦を立てることであり、私が夢想したところで何にもならないわけだが。

もういちどスロヴェニアの歴史に戻ると、彼らの強引なユーゴスラビアからの短期間での独立は、彼らの政治的軍事的な作戦の勝利である。決して平和的解決ではないが、結果的に平和になった。

今回残念なことがある。調べたら今回の大きな目的のひとつ、SUSHIMAMAが日曜日休業だった。
これには泣けた。

夜は前回もいった同じ駅前の中華料理屋。中華はクロアチアではまったく食べる機会がなかったので前回同様おいしくいただいた。

この日の夜、ホステルのバーでロンドンオリンピック閉会式を見た。正直私の好みにあうセレモニーではなかった。

自分にとって深刻なことがあった。次回オリンピックが4年後に必ず行われるわけだが、その時の自分の年齢を改めて計算した時(4足しただけだが)に愕然とした(笑)。本当は笑い事ではなく、そのまま部屋に戻り暗い気持ちでビールを飲んでねた。

他の国や日本のことを憂う前に、まず自分のこれからの人生について憂う必要があった。

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